栗沢町立上美流渡小学校跡を訪ねてみた(再訪) 2024.5.12

栗沢町立上美流渡小学校跡を訪ねてみた。

前回来た時には草ぼうぼうだったはずなので、

満を持して来てみたよ。

 

 

一応、前回来た時のログはこれ↓

 

相変わらず墨の入っていない表札。

これは右側の校門で上美流渡中学校とある。

左は前回撮っているので省略。

そっちは上美流渡小学校なはず。

 

前回は草が伸びていて見ることができなかった

母校を偲ぶ碑。

 

石碑の裏側には上美流渡小中学校々歌。

 

同じ敷地にあった植村貞吉氏之記念碑。

 

石碑の裏側。

石碑には

       記念碑再建ノコトバ 

植村貞吉ハ若イ頃ヨリ美流渡シコロノ沢ノ一千町歩ノ植村農場ノ開拓経営ニ長年努力シ成功ヲオサメ地域ニツ

クシ学校ニモヨク寄付ヲシテイマシタ。タマタマ昭和初期ノ経済不況ニ際シ、美流渡ニテ約七百名前後ノ従業
員ヲ有スル奈良炭鉱ガ経営難ニオチイリ失業者増加ノ怖レガ村内ニ生ジ、当時ノ栗沢村長山田勢太郎氏ガ娘婿ノ

貞吉ニ炭鉱ノ救援ヲ頼ミマシタ。貞吉ハ父母親戚ニ相談シマシタガ反対サレテ大イニ苦シミマシタ。然シ、

目前ニ多クノ人々ノ米塩ニモ困リツツアル苦悩ヲ見ルニ忍ビズ農場ヲ売却シソノ全私財ヲ投ジテ炭鉱ヲ救済ス

ルコトヲ決意シマシタ。全農場民ノ愛惜ト第十八区住民ノ友情カラ農場内ニ流レル川ヨリ一人一人ガ石ヲ拾イ

記念碑ヲ建テテクレマシタ。然シコノ碑モ六十年近イ風雪ニ文字ハ薄レ昔ノ姿ハナクナリマシタ。

父ハ国ヲ愛シ国事ニ主力ヲツクシ、シベリア満州両事変ニモ出兵シ戦前郷軍ヲ代表シテ昭和天皇ヘノ御前講演

ノ栄ニ浴シ今次ノ大戦ニハ老齢ノ身デ北千島ニ出兵シ発病帰還シ昭和二十四年七月
十五日自宅ニテ安眠、年令

五十六才陸軍大尉 父ノ遺徳ヲタタヘ石碑ヲ建テテ下サッタ人々モ今ハ故人、ソノ御冥福ト御子孫ノ御繁栄ヲ

祈ルト共ニ石碑ノ移設保存ニ御尽力下サッタ方々ニ感謝シテココニ父ノ石碑ヲ再建致シマス。

                         平成二年五月吉日

とあり、その後長男の方のお名前がある。

この地域とそんなつながりがあるんだね。

 

石碑のそばにあった手水石。

何でこれだけあるんだろう?

 

一応この辺りはグラウンドだったはず。

向こうにはキレイな建物がある。

 

栗沢工芸館という建物で

焼き物とかできたんだけど現在はやっていない。

再開の日はくるんだろうか?

 

近くにあったバス停。

いつの頃からかバスも来なくなり

現在はコミュニティバスが運行している。

 

2012年の航空写真。

現在とほぼ変わらない。

 

1974~1978年の航空写真。

左側の長い校舎があるあたりに現在閉校の碑があり、

植村貞吉氏之記念碑のあったあたりは中学校だったのかな?

 

一応、前回も書いたけど・・・

栗沢町立上美流渡小学校と栗沢町立上美流渡中学校は、

1970(昭和45)年にそれぞれ

栗沢町立美流渡小学校と栗沢町立美流渡中学校に統合となり閉校している。