栗沢町立茂世丑小学校跡を訪ねてみた 2023.6.11

栗沢町立茂世丑小学校跡を訪ねてみた。

 

 

 

 

跡地には茂世丑地区集会所というコミュニティセンターがある。

ちなみにこちらは栗沢町(現岩見沢市)の茂世丑(もせうし)地区。

昔、バレーボールで有名だったのは妹背牛(もせうし)商業高校だけど、

全然違う場所だよ。

 

 

コミュニティセンターは校舎ではなさそうだけど、

その延長線上にあったこの建物は体育館っぽい。

もしかしたら中に学校の痕跡あるかもしれないなぁ。

 

 

建物そばにあった石碑。

ちょっと読みにくいんだけど・・・

 

回想

新時代に即応し本町教育発展の布石として統合

を決定し75年の輝く歴史を閉じ愛情と信頼に

培われた誇りある本校の伝統を未来に託す

昭和49年3月31日

茂世丑小学校閉校記念協賛会

 

とある。

 

 

石碑台座の裏側にあったプレート。

明治32年5月5日茂世丑尋常小学校として開校す

とあり、巣立っていった卒業生の数が書かれている。

明治32年は西暦だと1899年となるので

今から120年ほど前となる。

この辺りは開拓に入ったのと同じころということになるのだろうか。

 

 

百茂知新と書かれた石碑。

 

 

碑文。

なるほど、これは開拓の碑だな。

 

 

グラウンドへ向かう階段。

これは当時からの物っぽい。

今はもう行き来する人はいないんだろうけどね。

 

 

グラウンド跡。

周囲は畑なので休耕地にも見える。

すでに閉校してから半世紀がたつけど、

単なる原野に戻っていないのは今でも管理されているってことだね。

 

 

ニノキン。

裏側には紀元二(『二』は旧漢字)千六百年記念

昭和十五年十一月

とあり寄贈者のお名前があった。

すべての石碑に同じ苗字が見えたので

所縁の深いお家の方なんだろうな。

 

 

ちょっと昔の航空写真を見てみる。

2007年の航空写真。

今とほとんど変わりなし。

赤っぽい屋根が体育館跡だね。

 

 

1974~1978年の航空写真。

今、コミュニティセンターがあるあたりは前庭で、

体育館を挟み込むように校舎があったのか。

開拓の碑があった場所(体育館の南側)も校舎跡だったんだね。

あと、左側(西側)の道路が掛け変わっている。

下に見えている青い屋根は郵便局だったんだけど、

随分中途半端な場所にあるなと思ったんだよね。

こういう訳だったのか。

 

栗沢町立茂世丑小学校は1974(昭和49)年

栗沢町立栗沢小学校に統合となり閉校している。